やまゆり園事件から10年
〜今、私たちに問われていること〜
神奈川県相模原市の障害者支援施設「津久井やまゆり園」で、19人もの命が奪われ、26人が重軽傷を負いました。
「障害者はいなくなった方がいい。」
犯人は、その差別的な思想のもとで犯行に及びました。
あれから10年。
私は今、改めて問いかけたいのです。
私たちは、本当に変わったのでしょうか。
事件直後、私は被害に遭われた方々の名前が公表されなかったことについてブログを書きました。
一人ひとりには、生まれてから亡くなるまでの人生があります。
家族がいて、友人がいて、その人を大切に思う人がいます。
障害の有無に関係なく、一人の「人」として生きてきた証があります。
その思いは、10年経った今も変わりません。
一方で、この10年の間に、被害者の実名公表についての社会全体の考え方も変化し、ご遺族の意思を尊重する流れも広がってきました。
だから今、私が考えたいのは名前の公表そのものではありません。
障害のある人を、私たちは本当に一人の人として尊重できる社会になったのだろうか。
そのことです。
障害者差別解消法は改正され、合理的配慮は民間事業者にも義務となりました。
「共生社会」「インクルーシブ」という言葉も広く使われるようになりました。
しかし、私は議員として学校や福祉の現場で多くの相談を受ける中で、「本質はまだ変わっていない」と感じています。
肢体に障害のある子どもが遠回りしなければ教室へ行けない学校があります。
合理的配慮を求めても、「特別な支援はできません」と言われる学校があります。
子どもが学校へ行けなくなっても、「本人の特性だから」「家庭の問題だから」と受け止められ、学校という環境を見直そうとしないことがあります。
子どもが自傷や他害という行動を見せるときも、「問題行動」として扱われ、その背景にある困りごとやSOSを考えようとしない場面があります。
障害者権利条約や障害者差別解消法の根底にあるのは、「社会モデル」という考え方です。
障害は、その人だけにあるものではありません。
社会の環境や制度、周囲の理解が十分でないことで生まれるものです。
だから、本来問われるべきなのは、「その人に障害があること」ではなく、「その人が学び、暮らし、働ける環境を社会は整えられているのか」ということです。
それなのに現実には、困りごとが起きると、「その人の障害だから」と受け止められ、社会や環境の側を見直そうという発想が後回しになることが少なくありません。
言葉で伝えることが難しい人もいます。
しかし、それは「思いがない」ということではありません。
表情、視線、行動、文字、写真、絵、ジェスチャー、ICTなど、人はさまざまな方法で意思を表現しています。
本当に問われるべきなのは、その人に意思があるかではなく、
その意思を受け止める方法や環境を、私たち社会が整えられているのか
ではないでしょうか。
そして、私が強く気になっているのは、「迷惑」という言葉です。
「みんなと同じようにできないと迷惑になる。」
「人手が足りないから対応できない。」
「合理的配慮は特別扱いになる。」
「地域に施設ができると迷惑。」
こうした言葉は、日常の中で何気なく使われています。
しかし、その積み重ねは、「障害のある人は迷惑をかける存在」「負担になる存在」という誤った価値観を育ててしまわないでしょうか。
植松死刑囚の思想は決して特別なものではありません。
差別や排除の考え方は、ある日突然生まれるものではなく、社会の中にある小さな偏見や、「迷惑だから」「仕方がない」という意識の積み重ねの中で育まれてしまう危険があります。
だからこそ、私たちは日常の言葉や行動を見つめ直さなければならないのだと思います。
合理的配慮は特別扱いではありません。
誰もが、その人らしく学び、働き、暮らすために必要な環境を整えることです。
子どもは、大人の姿を見て育ちます。
障害のある人が尊重される姿を見て育つのか。
それとも、「迷惑をかける人」という空気の中で育つのか。
その違いは、子どもたちの価値観に大きな影響を与えます。
植松死刑囚が犯した罪は、決して許されるものではありません。
だからこそ、事件を過去の出来事として終わらせてはいけないのです。
私は、この10年間、現場で何度も思いました。
子どもを変えようとする前に、学校は変わったのだろうか。
保護者に理解を求める前に、行政は変わったのだろうか。
「この子には無理」と言う前に、大人はその子の思いを受け止めようとしてきただろうか。
やまゆり園事件から10年。
今、私たちに問われているのは、「障害のある人をどう変えるか」ではありません。
私たちは、障害のある人を変えようとしていないだろうか。
本当に変わらなければならないのは、社会の側ではないのだろうか。
障害のある人が、その人らしく生きられる社会へ。
私たち自身が変わる覚悟を持てるのか。
その問いに向き合い続けることこそが、亡くなられた19人の命を決して風化させないことにつながると、私は信じています。

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拝読し胸が熱くなりました。「多様性」「共に生きる」など、言葉は聞かれ始めました。しかし「その多様性の中に、うちの子は入っていますか?」と言いたい保護者の方々がどれほどいるでしょうか。「共に生きる希望の中に、知的障害児をはじめ重度障害児は含まれていますか?」と言うような状況がまだまだ根強く浸透しているのが現状ではないかと思います。でも、諦めないで自分に出来ることをやり続け、明るく元気に生きて行きたいです。障害がある子どもたち大人たちが排除され続け、迷惑な存在と認識させる。見えない、存在しないことにする分離教育のたまもののような意識に負けたくありません。手を取り合いながら、世界って素晴らしいよね、と笑いながら頑張っていきたいです。