学校の中のもうひとつの学校「特別支援学級」~共生社会の実現に程遠い現実

障害の有無にかかわらず共に生きる共生社会の実現に向けて、具体的に何か動き出しているでしょうか?

「障害のある人に対する偏見や差別的な考え方から引き起こされた」と伝えられる、やまゆり園の事件から2年が過ぎました。

「障害者はいなくなればいい」と主張していた容疑者に同調するSNS上の投稿などをみると、障害のある人を「知らない」ことが引き起こす問題の根深さを感じずにはいられません。

共生社会を本気で実現すべく動くかどうか?・・・やまゆり園の事件で突き付けられた私たち社会の問題ではないでしょうか。

いくら共生社会を掲げても、これまでと同じ取り組みでは、理想に終わってしまうと思えます。少なくとも国や地方自治体が新たに取り組んでいるとは思えません

 

文科省はホームページで次のように掲げています。

共生社会の形成にむけて

基本的な方向性としては、障害のある子どもと障害のない子どもが、できるだけ同じ場で共に学ぶことを目指すべきである。

 

では、義務教育である小中学校の現場を見ると、どうでしょうか。

国が掲げる「障害等の有無にかかわらず、共に生きる」という理念を実現するために、学校が担っている役割がとても大きいことを、自覚できているとはとても感じられない現実があります。

特別支援学級在籍の子が、通常学級の中に入れば、できないことだらけで迷惑をかけ「いじめられる」「できることを増やしてから」「通常学級の先生が交流に良い顔をしないから」等の理由で、排除されていくことがまだまだまかり通っています。

 

平成25年9月28日に施行された「いじめ防止対策推進法」では、「いじめは絶対に許されない行為であり、全ての児童・生徒はこれを行ってはならない」とし、いじめを生まない、許さない学校づくりが求められています。

にもかかわらず「障害があるということはいじめられるかもしれないから、一緒にいないほうが良い」と課題をすり替え、正当化する学校文化があるのです。

通常学級に在籍する子どもがいじめられた時に、「〇〇ができないから、いじめにあうのだ」とすることは、人権侵害であり、学校が口にしてはいけないことです。障害があろうがなかろうが、何ができなかろうが、学校はいじめを許さず、いじめを生まないように指導していくべきです。

また、特別支援学級に在籍している子どもが通常学級に交流に行くことに対して、「障害のある子どもたちどうしで、まずは連携をとって、仲間意識をもつ」ことを前提に、分離してしまう傾向があります。

これは、障害のある子・人を通常の社会から排除していくことに等しく、その考え方の根底には優生思想に通じるものがあるようにさえ感じます。

 

例えば、学校の建替え設計で「ともに生きる」理念が落とし込まれていない問題について焦点をあててみます。

 

各自治体が国から交付金を受ける際には「公立の義務教育諸学校等施設に関する施設整備基本方針」等に基づき、施設整備計画を策定しなければなりません。

http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/zyosei/1306482.htm

一部を引用します。

近年の公立の義務教育諸学校等施設については、小中一貫教育等多様な教育活動に柔軟に対応できるスペースの確保や情報化への対応等の質的向上を図るとともに、地球温暖化等の環境問題に対応するためのエコスクール化、トイレ環境の改善や空気調和設備の設置等の社会的要請にも応えていく必要があり、老朽化対策の実施に当たっては、これらについても取り組むことが重要である

 

文科省が「公立の義務教育諸学校等施設に関する施設整備基本方針」の中で、「児童生徒等の安全を守り、安心で機能的かつ豊かな教育環境を確保するとともに地域住民の安全と安心の確保に資することを目的」に定めた重要事項には、以下の点が一切言及されていません

  • 障害のある子どもと障害のない子どもが、できるだけ同じ場で共に学ぶことを目指すための整備
  • 性同一性障害に係る子どもや教職員に配慮した更衣室・トイレ等の整備

SDGs(接続可能な開発目標)の理念である「誰もとりこぼさない置き去りにしない」視点からも、いずれも入れ込むべき重要な視点のはずです。

この基本方針では、補助金を交付される施設設計において、共生社会の形成のために「全ての人を包括的にかつ公平」で、障害の有無にかかわらずできるだけ同じ場で共に学ぶこと等を視野に入れた設計をしなくても「補助金は難なくおりる」と言っているに等しい内容です。

文科省自身が掲げている「共生社会」について、施設整備基本方針に入れ込めていないのは、縦割り組織の弊害だけでなく、文科省内で「共生社会の形成」が共通認識になっていないとも思えてなりません。

 

わかりやすい一例があります。

杉並区が高円寺小中一貫校の建設に着手しています。その設計について、杉並区民の方から「共生社会と逆行している。”ともに学ぶ””子どもの人権”に配慮した設計がされていないように思うが、どう考えるか?」とのご相談がありました。

高円寺小中一貫校は、2階の小学校低学年フロアに、特別支援学級の小学生・中学生を集めた特別支援学級エリアを設け、音楽室・調理室・トイレ・シャワー・更衣室を設け、通常学級の教室に続く廊下に設けられた扉を閉めることもでき、また、特別支援学級の職員室も設置できます。まるで小中一貫の学校の中に「特別支援学級」というもう一つの学校を作る設計です。

杉並区民の方が疑問に持たれたのは以下の点です。

  • 中学生は4階に教室が設けられている中、特別支援学級に在籍する子どもは、障害があるということから、通常の中学生エリアから切り離され、小学校低学年のフロアにある特別支援学級エリアでほとんどの時間を過ごすことになる。これは、人権の問題にかかわる。
  • 同じ中学生でありながら、特別支援学級も含めて小学生ばかりの2階フロアで過ごさせることは「小学生の海の中の孤立した中学生の島」のようなものであり、中学生が「小学生の文化」の中で育つことは、中学生の文化で育つ教育の基礎となる環境を奪われていることに等しい。

 

そこで、杉並区教育委員会に取材をしました。

小学校・中学校の特別支援学級を校内の一か所にまとめたのは、

  • 小学校で二桁の足し算ができていた子どもが、中学に進学すると一桁の足し算からやり直しをさせられたり、一貫したカリキュラムができない問題がある。
  • 小学校・中学校の特別支援学級を同じ場所にして9年間一貫した教育をしっかりと進めるために重要。
  • 中学生エリアに特別支援学級の教室がなくても「特別支援学級の生徒も通常学級の生徒も等しく同じ学校の子どもであり、同じ校舎の中で、ともに学んでいるのだから問題はない。
  • 障害の程度によっては上の階に行くことが困難な場合があるので、低層階としている。
  • 低層階に置くことで来校者とのふれあいが期待できる。

との見解です。

一見、もっともな回答に感じる方もいらっしゃるかも知れませんが、東京都が共生社会の実現のために策定した「建築物などの整備のためのユニバーサルデザインガイドライン」では、

  • 基本的に誰もが同じ動線で利用できる経路となっている(特別な経路を設定してない)こと。
  • 誰もが差別感や疎外感を感じることなく、利用できるようになっていること。

を建築の計画時に求めています。

同じ学校の中学生でありながらも、特別支援学級に在籍することで4階の中学生エリアに登校させることなく、小学生エリアに登校させる動線の分け方は、ユニバーサルデザインガイドラインに則っていません。来たる東京オリンピック・パラリンピックに向けて、都内の学校をあげて障害の理解を深めようとする都の方針ともまったく矛盾しています。

同じ中学の子達と別エリアで差別感や疎外感を感じて切ない思いをさせて、いいはずがありません。

 

さらには、小中一貫したカリキュラムは、同じ場所である必要はなく、そのためにも、教員には、確実な個別指導計画の作成と引き継ぎが求められているわけです。

同じ場所でなければ個々に応じた一貫したカリキュラムができないと言うのは、個別指導計画の作成と引き継ぎ等、教員の側にある個々に応じる理解や工夫、コミュニケーション不足等の課題を、子どもたちが共に育ちあうチャンスを奪うことによって解決しているようにすら感じます。

障害の程度によって上下の階への移動が困難なことがないように、エレベーター等を設置するのであって、たまに訪れる来校者とのふれあい以上に子どもどうしが日常的にふれあうことのほうが重要なのは言うまでもありません。

 

杉並区に限らず、他の自治体でも、特別支援学級の子どもに「落ち着いた環境」をということで、動線を分けて昇降口も別に設け、職員室も別にして、完全にその中で完結できるようになっており、同じ学校でありながらももう一つ別の「特別支援学級」という学校があることが珍しくありません。

建替えの際にも、各階に「誰でもトイレ」を設けず、避難所となる体育館近くに設置する重要性にも思いが至らず、校内のどこかに誰でもトイレを付けただけで、「誰でもトイレが必要な少数の人は、他の階を利用するぐらいはして当然でしょう。そのぐらいの不便は当たり前だ」、と思っているふしがある事例も多数見られます。

エレベーターにしても、誰かを呼んで鍵をあけてもらわなければ使えない、移動ができない、といったバリアフリーとは到底言えないような学校設計も横行しています。エレベーターを利用する子どもだけ、大回りを強いられるような、特別な経路を設定することさえあります。

 

自治体は、本気で共生社会を実現する気があるならば、国が掲げる理念を掛け声だけに終わらせず、細部まで当事者の視点に立って具現化した上で、確実に設計に落とし込むこと。そうしてできあがった校舎で過ごしてこそ、子どもたちは障害の有無にかかわらず共に過ごすための手立てや尊重しあうことを身を持って知り、学んでいき、やがては大人になって、真に社会に根付いた共生社会を築き上げ、繋いで行く担い手に育って行ってくれるのではないでしょうか。

国は、施設の補助金に関する基本方針を見直し、各自治体の学校施設設計が、誰もが差別感や疎外感を感じることのない配慮をもった「誰も排除せず置き去りしない」設計となっているか、きちんとチェックと指導を行った上で補助金を交付することも含め、改めて改定する必要があると思います。

学校の中のもうひとつの学校「特別支援学級」


学校の中のもうひとつの学校「特別支援学級」~共生社会の実現に程遠い現実” に対して 2 件のコメントがあります

  1. 素晴らしい取り組みに賛同いたします。
    「障がい者」は一様ではないという現実にも課題克服を挫折させる要因があるかもしれません。オリンピックとパラリンピックを言い訳ている事にも疑問を感じています。
    障がい者への取り組みは変化してきているように思います。普通に暮らす事への福祉サービスという社会システムに終止するあまり忘れていた事。それは「障がい者が幸せを追求する権利」です。
    生きている事だけで良しとしている現在の制度には違和感を感じています。
    そして一般の教育や学校教育の場を「就労専門学校」と位置づけている傾向も感じます。一般企業の利益追求は教育の主旨とは馴染みません。

    想像したい。
    中学高校のキャンパスで健常者と障がい者が芝生に寝そべって別け隔てなくランチを食べている様子。障がい者が授業の科目によっては特別な補修的授業を受けるために同じクラスの同級生とハイタッチ!して分かれる自然な教育の現場。
    健常者は障がい者から多くのことを学べると信じています。

    健常者がストレスなく何のコンプレックスや悩みも無く一生を過ごせるでしょうか?健常者とはある意味で架空の呼び名であり人間は痛みと苦しみ、幸せを持った人間です。

    障がい者福祉サービスは「合理的配慮」を思想の基本に、健常者の幸せな将来の心の成熟に大いに役立つのではないでしょうか。

    1. 海津敦子 より:

      本当にその通りだと思います。
      今ある制度の使い方で、ご指摘いただいたような日常を実現できるはずです。
      「自然な教育の現場」から示していかれたら素敵ですし、それこそが教育かと思います。

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